前にこのタイトルで書いたような気もしますが、一ヶ月ほど前に掛川城で老忍者をやっている兄夫婦が遊びに来ました。兄は定年以来、俄郷土史家になっていまして、掛川城の城主に家康の異父弟の松平定勝(久松松平家)さんがなっていたこともあり、「於大の方の半生を訪ねて」という小旅行をしに来ました。
順番は違いますが、5月30日は於大の方が最初に嫁ぎ、家康を産んだ岡崎城に行ったようです。岡崎城の案内の方に色々説明していただいたようです。
その夜は我が家に泊まって、回らない回転寿司屋で一杯。回らない回転寿司ってのは、タッチパネルで注文する回転寿司で、我が家ではそう言ってます。
翌朝、朝食前に歩いて数分の所にある『椎の木屋敷跡』へ行きました。ここは於大の方が松平家から離縁されてから3年ほど住んでいたと言われます。
http://pinno601.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-d139.html
朝食後、於大の方が産まれた『緒川城跡』へ行き、水野家の菩提寺『乾坤院』へ。この辺は早朝徘徊で来るところです。
その後、於大の方が再嫁した久松家の『阿久比城跡(坂部城跡)』へ
相手の久松俊勝さんも再婚で、前妻との間に長男、信俊さんがいたそうです。於大の方はここ阿久比で三男四女をもうけたと言いますから、仲が良かったんですね。
その後、俊勝さんは於大の方とその子供を連れて、岡崎へ行き、阿久比城は長男の信俊さんが継いだんですね。
近くに久松家の菩提寺『洞雲院』があるので、訪ねてみました。
建て替えたばかりなのか新しいですね。
ここは久松家と、久松松平家の墓地
洞雲院を創建した定益さん、そして定義さん、俊勝さん、徳川家康の生母於大の方、桑名藩三代藩主松平定綱(家康異父弟定勝次男)の五人のお墓がありますが、於大の方のお墓には「傳通院殿 御分髪」と彫ってあります。
少し離れたところには、俊勝さんの長男、信俊さんと幼い二人の子供のお墓があります。なんでも佐久間信盛の讒言により、信俊さん切腹、その後佐久間勢に城は落とされ、子どもたちも殺されたそうです。
しかし、同じ久松家の当主なのに、やはり徳川家に遠慮があるのでしょうか、同所に祀られることを遠慮したんでしょうね。
さて、相変わらず順不同ですが、刈谷に戻り『刈谷城(亀城)跡』へ、刈谷城は今年、築城480年だそうです、もっとも城はほとんど残っていないんですがね。色々イベントがあるようです。
最後は刈谷城の南にある、水野家の菩提寺『楞厳寺(りょうごんじ)』 へ、離縁されて、椎の木屋敷に住んでいた於大の方が良く訪れたと伝えられていて、良く知られている、傳通院(於大の方)の肖像画がありますが、予約していかなかったので観ることはできませんでした。
どうですか、順不同でしたが、整理してみると
緒川城・乾坤院→岡崎城→椎の木屋敷・刈谷城→楞厳寺→阿久比城・洞雲院→岡崎城
これで良いでしょうか?順不同なら、一日コースですね、どなたかやってみては。
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