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2015年1月11日 (日)

父の誕生日

きょうは亡き父が生きていれば93回目の誕生日でした。大正11年1月11日。

父は戦時中、南太平洋のラバウルがあるニューブリテン島の隣、ニューアイルランドという小さな島に従軍していました。
地元の方々には大変迷惑だったとは思いますが、息子としてありがたかったことは、現地の方々を迫害したり搾取していたことはなかったであろうと推察されたことです。子どもたちに勉強や歌を教えたり、現地の言葉を教えて貰ったりしていたようです。
このようなことは、漫画家の水木しげるさんも書いておられます。
なにしろ、初めて親元を離れて行ったところが、絶海の孤島で言葉も通じない所、しかも最悪なのは戦争のために行ったということです。
幸いにして、ラバウルほど激戦地ではなかったので、けがもなく終戦の翌年に帰ってきたようです。
そして、私が子供の頃は晩酌を飲むと「もう一度行ってみたい」と良く言っていました。それが、1990年再び現地の土を踏むことになったのです。
この辺のいきさつは2006年9月30日に書いてみました。
少し抜粋してみますと。
(前略)それは、太平洋戦争である。父は先の大戦の際、有名なラバウル(ニューブリテン島)のすぐ隣の小さな島に従軍していたのである。幸いと言ってはおかしいが、それほどの激戦地ではなかったらしく、殺すことも殺されることもなく、原住民とも仲良くやっていたとのことである。しかし、これは日本軍から見てのことで、本当の住民感情は推測できない。

ただ、私の子どもの頃だから昭和30年代の後半だろうか、非常に懐かしそうに戦地の話をしてくれた。原住民との会話のためのノートなどもあり、何度も「もう一度行ってみたい」とつぶやいていた。それを聞くだけで、子供心に原住民にひどいことをしてきたのではないな、と考えることができた。

その頃は、「戦友会」などの主催で遺骨収集団が結成され、団体で遺骨を収集しながら現地を訪れることが何年に一度かは計画され、人員の募集があった。しかし、その時期は我々子ども達が育ち盛り、一家の大黒柱が数週間家を空けることは不可能で、あきらめていた。

時は過ぎ、遺骨収集団も結成されることがなくなり、戦争は風化。しかし、息子3人は確実に成長、ある年の正月に酔った勢いで相談した。「親父も歳をとってきて、早く行かせてやらないと、行けなくなっちゃうぞ」しかし、ツアーもないど田舎、日本語通じないし、などと酒の肴にしていたら、弟が「俺、会社に入って10年だから、特別休暇もらえる」と言いだした。「じゃあ、おまえ引率兼通訳で自分の旅費を出せ、俺たち(兄と私)は親父とお袋の分を出す」ということで、トントン拍子に決定してしまったわけである。

両親は旅行にあたって、現地の子どもたちにということでノートや鉛筆を沢山持っていき、配ったらしい。お礼にパパイヤなどの果物を子どもたちが沢山持ってきてくれた写真があった。

現地は父が居た頃と全く変わりはなく、父の知っている方もご存命だったという。

日本に帰ってからしばらくは、浦島太郎のように、頭の中が変だったと父が後で語ってくれた。

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