2008年5月14日 (水)

万灯山

Mantouyama1 西尾市の東のはずれにある万灯山に登ってきた。

この辺はハイキングコースが作ってあり、標識もあちこちにあるので迷うことなく歩くことができる。

山と言っても150メートルくらいの小さなものなので、「野鳥の森」と称するコースを抜けると、アスファルト道に出、少し歩いて山道を登るとそこが頂上。

Mantouyama2

頂上には古塚のようなものが見えるが、全く説明はない。その辺をうろうろしていると、頂上の東側の林の中に五体の石仏が見えた。石仏の一つ一つに干し柿が供えてある。
Mantouyama3_2

例のよっしーてくてく会のプレートを探したが、見つからなかった、代わりにこんな石碑を頂上ではないが発見。叙勲記念だそうだ・・・・・帰ってきてネットで調べたがよく分からない。歌人だろうか?
Mantouyama6しかし、こういったものはご自分のお家へおいて欲しいものだ。

帰りに麓にあるお寺【長円寺】を訪ねる。

入ってみて初めて知ったのだが、このお寺は江戸時代初期の京都所司代 板倉勝重さんの菩提寺だそうだ。
Mantouyama4 本堂の左裏にある肖影堂横に板倉家のお墓がずらっと並んでいて、歴史を感じる。ここで手を合わせ、ゆっくり見せて頂くが勝重さんのお墓がどれかは分からない。ただ、古いお墓には【従五位下 伊賀の守】の官位が必ず記してある。
Mantouyama5 万灯山とは長円寺の山号だったのか。

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2008年3月 3日 (月)

三ヶ根山2

Yamamiti1 この日は別の登り口を行ってみることにした。

やはり小さな車が通れるほどの道だが悪路には違いない。オフロードバイクが私を追い越していったが、敷き詰められた枯れ葉に運転がしづらそう。

三十分ほどで【殉国七士廟】の東に出たので、そのまま小野ケ谷登山道を下山してみた。私の場合は頂上を目指すためではなく、時間と距離を稼ぎメタボ解消を目的にしているので、何度かのアップダウンがある方がよいのである。下り始めるとすぐにマウンテンバイクの二人にすれ違う。「すごいねぇ~」と言うと「いやいや歩きの方が大変ですよ」と何となくお互いを讃え合う。
Yamamiti2 しばらく山道を降りていくと【小野小桜屋敷跡】という案内があったので、登山道をはずれて登ってみたら、このような看板があった。見にくいだろうから、下に転載する。

小桜遺跡について

 ここは小野小桜(おののこざくら)が住んだといわれる屋敷跡です。
 室町幕府14代将軍足利義澄に仕えていた三浦安房は、同じ女院警護にあたっていた女官小野小桜と恋仲になり、小桜が懐妊したため二人は、京を逃れ寺部城の家老大嶽氏を頼って幡豆に来ました。天正7年(1510年)のことです。

 二人に同情した大嶽氏は城主小笠原安芸守と相談の上、将軍家へのきこえをはばかり、ここ小野ケ谷の三の沢に庵を建てて住まわせました。

 二人は田畑を耕し、三人の男の子にも恵まれ幸せに暮らしていましたが、ふとしたことから小桜が病の床につきました。

 病気が重くなったとき、小桜は、夫の安房を枕元に呼んで、自分が小野篁の子孫であることを告げ、自分の死後は小野家の家名が絶えるため、二男に小野の姓を名乗らせてくれるように頼んで息をひきとりました。
   ※小野篁(平安時代の漢学者として有名)

 小桜の頼みを聞き入れて、安房は、長男には三浦の姓を、二男には小野の姓を名乗らせました。
 そして三浦の子孫の方は西尾市に、小野の子孫の方は幸田町に、今日まで家系が続いています。

 なお、ここ小野ケ谷の地名は、小野小桜に因んでつけられたものともいわれています。(幸田町小野家の家系図より)

Kozakura1 屋敷跡は、この辺特有の石で積まれた痕跡が残っている。周辺はヒノキが植林されていて鬱蒼として薄暗いが、当時は雑木林に囲まれ家の北と東が山、南と西が開けてとても明るいところだったと思う。

またすぐ前に、雨期ではないのに流れの音がするほどの沢があるので、当時としてはとても暮らしやすい所ではなかっただろうか。
Kozakura2 とんだところで、古代のロマンに思いを馳せてしまった。

帰りはそのままもと来た道を帰った。

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2007年12月14日 (金)

きょうは命日

Kezouji1 一色町から車で15分ほど走った吉良町に、【華蔵寺】(けぞうじ)というお寺がある。吉良家の菩提寺であり、きょうは吉良上野介義央(よしひさ)公の命日、すなわち赤穂浪士の討ち入りの日である。

義央公は地元では、今もって名君と慕われとても人気のある人である。もちろん、その地元に残した功績も大きく、遺されたものも多いので、300年以上が経っても彼の人柄を偲ばせるエピソードも多い。
Kezouji2 決して、イベントとして行われている法要ではないのだが200人以上の方々が僧侶の読経とともにお墓に手を合わせていた。

浅野内匠頭の刃傷から、この赤穂浪士の討ち入りまで、テレビや映画以外の知識は少なく意見を言うほどの知識も持ち合わせていないが、少なくとも「刃傷」以来浅野家側も吉良家側も大きな不幸に見舞われたことは確かで、「仮名手本忠臣蔵」以降、300年に渡って吉良町の人間を苦しめてきたことは確かである。
Kezouji3 歴史というものは、評価が非常に難しいものであるが、現在では少しずつ不当に評価された方々の復権が始まっているような気がする。

初めて法要を目の当たりにして、吉良町の方々のご努力に頭が下がる思いであった。

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