2017年9月28日 (木)

永江院

 民進党は末期状態だと思っていましたが、これほど酷いとは思ってもいませんでした。もう政治とか意地とか恥とか一切考えず、選挙で当選することばかりを考えていますね。だいたい現在の民進党が右も左もごちゃ混ぜなのに、中山さんが合流している希望の党と合流するなんて気狂い沙汰です(中山さんが悪いって言っているのではありません)、少なくとも支持者は許さないでしょう。また希望の党にしたって、メリットはありません。民進党と合流して、議席を獲得しても選挙後すぐにゴタゴタが始まり、国民から愛想を尽かされること間違いありません。希望の党は、焦らずに長い目でまともな候補者を選び育てていくべきだと思いますね。

 そうそう、勘違いと言えば名古屋市の河村さん・・・大人しくしていれば良いものを、また臀がムズムズしたのか、国政に色気を出しています。これは簡単な話、新党に乗っかり、あわよくば総理大臣が狙えるんじゃないかと、勘違いしているんだと思います。この人ねパフォーマンスだけで名古屋市民を騙してきた人です、代議士時代も民主党の代表選挙で、何回も推薦人を確保できなかった、仲間内で人望のない人なんです。でも勘違いだけは甚だしい。
Yokoin1  先日お墓参りに行った、女房の実家のお寺は「永江院」という掛川では有名曹洞宗のお寺です。ここのお寺には山岡鉄舟の筆による襖などの寺宝があるようですが、この総門と龍の彫刻は、かの山内一豊が寄進したものだそうです。
Yokoin2  網がかけてあるのは鳩よけかと思ったら、言い伝えでその昔、龍が夜な夜な這い出して池の水を飲みに来るので、村人が網を張って出られなくしたんだとか・・・・

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2017年7月 3日 (月)

冷茶

 この時季になるといつも登場する冷茶。

 きょうは一段と暑さが増して、動かなくても体中汗がしたたり落ちます。こんな時は冷たいお茶が美味しいですね、おちゃはさっぱりしますしね。
Tea1 ティーポットに冷たい水を入れ、お茶を適量入れて一晩冷蔵庫に入れておきます。するとこのような見事な緑色のお茶が出来上がっています。水で出すためか渋みが少なく、後味も爽やかです。
 お茶は高いものではありません。
Tea2  500グラム税別1,000円の五明茶業組合の『だんらん』一番茶と二番茶のブレンドだそうです。この掛川市五明というところは、西郷地区と呼ばれている地区で。その昔、徳川家康の側室『西郷の局』の出身地だと言われています。(諸説あります)ご多分に漏れず、この西郷の局(お愛の方)も寡婦だったようですね。

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2015年11月20日 (金)

猿渡川

このところ雨が多いですね~また雨の中を歩いてきました。土曜日夕方は、雨がやんでいたので出かけたのですが、途中から本降りになってしまい42分で帰ってきました。次の日曜日は、起きた時には雨が降っていたのですが、雨雲の様子を見て時期あがるだろうと出かけました。初めは失敗だったかなと思ったんですが、30分ほど歩くと雨もやみ、しばらくすると濡れた服も乾き始めました。

151115_071002 刈谷の街の南部に猿渡川という川がありまして、ここも私が良く歩くところです。この猿渡川という名前ですが、wikiによりますと(「猿渡」(さるわたり、さわたり)という地名には「(猿でも渡れるほど)狭く渡りやすい所」という意味があるが[12]空海(弘法大師)にまつわる言い伝えが猿渡川の名称の由来とされている[13]

空海は帰京の際に現在の知立市付近を通りがかり、遍照院(弘法町)の南側で橋のない川に差し掛かると、その川のたもとで親猿と3匹の子猿に遭遇した[13]。兄猿と弟猿2匹は仲が悪い様子で、どのようにして川を渡るのか見ていたところ、親猿は自分がいない場所で兄猿と弟猿を一緒にすることなく、巧みに3匹の子猿を対岸まで背負って渡した[13]。空海は親猿の知恵に感心し、この川を猿渡川と名付けた[13]

  1. 親猿は兄猿を背負って対岸に着き、兄猿を置いてこちらに戻った。
  2. 親猿は弟猿Aを背負って対岸に着き、兄猿を背負ってこちらに戻った。
  3. 親猿は弟猿Bを背負って対岸に着き、そのままこちらに戻った。
  4. 親猿は兄猿を背負って対岸に着き、4匹の猿はすべて対岸に着いた。)だそうです。
151115_071101_3 橋の欄干に猿たちのレリーフが飾られています。

おそらく、このような話は日本全国にあるんでしょうね。
151115_071001 ちなみに、橋の名前は巡見橋、これは江戸時代の巡見使にちなんだものだそうです。
この日は103分、11,688歩  113歩/分ですからちょっと低いですね~。

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2015年10月 9日 (金)

今川氏発祥地

今川氏発祥地って所へ行ってきました、そうそうあの織田信長に桶狭間で敗れた、今川義元さんの故郷、といってもかなり遠い故郷です。

Imagawa1 どこにあるかって言いいますと、静岡県じゃなくてここのすぐ近くの愛知県西尾市、しかも今川町ってところにあります。中学校のすぐ隣、車がやっと一台通れる細い道沿いにあります。なんと駐車場もないので、隣の畑に停めさせていただきました。
Imagawa3
難しい話ですが、鎌倉時代に足利義氏の諸子長氏が吉良荘を治めることになり、吉良姓を名乗り、その二男、国氏が現在の西尾市今川荘を分与されて、今川姓を名乗ったそうです。
つまり吉良家も今川家も名門だって事ですね、ですから江戸時代になっても高家として、重用されたって事でしょう。朝廷とのパイプ役を果たしていたんでしょうね、吉良さんもその礼儀作法を浅野さんに
ところで、義元さんの息子である今川氏真さんって、その後どうなったかと言いますと、戦国大名としての今川家はなくなりましたが、波瀾万丈あちこちで昔の伝を頼りながら、生きて最終的には徳川家康の庇護の元、77歳まで生きているんですね~。そして、明治維新で今川家は没落して、断絶したんだそうです。

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2013年6月27日 (木)

於大の方

前にこのタイトルで書いたような気もしますが、一ヶ月ほど前に掛川城で老忍者をやっている兄夫婦が遊びに来ました。兄は定年以来、俄郷土史家になっていまして、掛川城の城主に家康の異父弟の松平定勝(久松松平家)さんがなっていたこともあり、「於大の方の半生を訪ねて」という小旅行をしに来ました。

順番は違いますが、5月30日は於大の方が最初に嫁ぎ、家康を産んだ岡崎城に行ったようです。岡崎城の案内の方に色々説明していただいたようです。

その夜は我が家に泊まって、回らない回転寿司屋で一杯。回らない回転寿司ってのは、タッチパネルで注文する回転寿司で、我が家ではそう言ってます。

翌朝、朝食前に歩いて数分の所にある『椎の木屋敷跡』へ行きました。ここは於大の方が松平家から離縁されてから3年ほど住んでいたと言われます。
http://pinno601.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-d139.html

朝食後、於大の方が産まれた『緒川城跡』へ行き、水野家の菩提寺『乾坤院』へ。この辺は早朝徘徊で来るところです。

その後、於大の方が再嫁した久松家の『阿久比城跡(坂部城跡)』へ
Agui1 相手の久松俊勝さんも再婚で、前妻との間に長男、信俊さんがいたそうです。於大の方はここ阿久比で三男四女をもうけたと言いますから、仲が良かったんですね。

その後、俊勝さんは於大の方とその子供を連れて、岡崎へ行き、阿久比城は長男の信俊さんが継いだんですね。

近くに久松家の菩提寺『洞雲院』があるので、訪ねてみました。
Agui2 建て替えたばかりなのか新しいですね。
Agui3 ここは久松家と、久松松平家の墓地
Agui4洞雲院を創建した定益さん、そして定義さん、俊勝さん、徳川家康の生母於大の方、桑名藩三代藩主松平定綱(家康異父弟定勝次男)の五人のお墓がありますが、於大の方のお墓には「傳通院殿 御分髪」と彫ってあります。
Agui5 少し離れたところには、俊勝さんの長男、信俊さんと幼い二人の子供のお墓があります。なんでも佐久間信盛の讒言により、信俊さん切腹、その後佐久間勢に城は落とされ、子どもたちも殺されたそうです。
Agui6 しかし、同じ久松家の当主なのに、やはり徳川家に遠慮があるのでしょうか、同所に祀られることを遠慮したんでしょうね。

さて、相変わらず順不同ですが、刈谷に戻り『刈谷城(亀城)跡』へ、刈谷城は今年、築城480年だそうです、もっとも城はほとんど残っていないんですがね。色々イベントがあるようです。

最後は刈谷城の南にある、水野家の菩提寺『楞厳寺(りょうごんじ)』 へ、離縁されて、椎の木屋敷に住んでいた於大の方が良く訪れたと伝えられていて、良く知られている、傳通院(於大の方)の肖像画がありますが、予約していかなかったので観ることはできませんでした。

どうですか、順不同でしたが、整理してみると

緒川城・乾坤院→岡崎城→椎の木屋敷・刈谷城→楞厳寺→阿久比城・洞雲院→岡崎城

これで良いでしょうか?順不同なら、一日コースですね、どなたかやってみては。

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2012年8月31日 (金)

於大の方

随分話は前後しますが、8月19日、例によって早朝徘徊をしていました。

今回は、やはり隣町、東浦町の宇宙山 乾坤院(うちゅうざん けんこういん)を目指しました。ご存知のように、徳川家康の生母、於大の方の生家、水野家の菩提寺です。
Kenkouin1 東浦町の古刹、曹洞宗のお寺です。

総門から山門へ。
Kenkouin2 本堂で手を合わせ、一休みです。
Kenkouin3 ここ東浦町は、於大の方が大好きでして、来る途中にも
Odai1 於大クリニックなるお医者さんがありますし、お寺の隣は、於大公園という広大な公園になっています。
Odai2於大の方が寺に三里四方を寄進したと伝えられているらしいので、この公園も寺の敷地なのかもしれません。

さて、以前の徘徊の際、緒川城址を探したけど見つからなかったと書きましたので、今回は再チャレンジです。

ところが、おそらくこの辺りだろう、と思う地区は、車がやっと一台通れるかどうかの細い道が縦横に+斜めも加わって、迷路のようです。

近所の方に二度お聞きして、やっとたどり着いたところは、周囲よりやや小高い猫の額ほどの所です。
Ogawajo1 ここで於大の方は産まれたのです。
Ogawajo2 木が数本生えているだけ、確かに、関ヶ原の戦いが終わり、天下の趨勢がほぼ決まった、1606年には廃城となっているとのことですから、あまり当時のものは残っていないでしょうね。

ここは車では絶対に来られないところですから、於大公園に車を置き、乾坤院などとセットで、ハイキングすると面白いでしょうね。

私はこの日、自宅からですから2時間コースでした。

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2012年8月 8日 (水)

カワラバト

夏の甲子園、我が故郷の代表校は1回戦に登場して、散ってしまいました。次はどこだ~愛知県代表か、長崎県代表か?

さて、日曜日恒例の早朝徘徊に行って来ました。隣町のお大の方の産まれた緒川城跡を散策しようとしたのですが、方向が少しだけずれてしまい、残念ながら行き着くことができませんでした。

のでので、同じく水野さんの居城、刈谷城跡、亀城公園を散策です。

この刈谷城、刈谷市のホームページによると、「刈谷城は天文2年(1533)水野氏の築城で、亀城とも呼ばれています。
 城主は、水野家のあと、水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦と続き、土井家が2万3千石で廃藩まで在城しました。」

歴代の城主の中に「松平(久松)」とありますが、この松平家は、徳川家康を産んでから、離縁されたお大の方が、この近くの『椎の木屋敷』で静養後、嫁いでいった阿久比の久松家です。
Shiinoki 家康(その頃は松平元康)は阿久比の異父弟3人に松平姓を名乗ることを許し、その末弟(定勝)の六男が刈谷城主となった歴史があるようです。この定勝さんの家系の方が、一番栄えたようで、旗本として分家していった方もあるようです。その中にNHKの松平アナウンサーのお宅もあるとか。

いずれにしても、定勝さんの六男(定政さんというらしいですが)ということは、お大の方から見れば孫に当たる訳です。孫が凱旋帰国したようなものなんでしょうか。

もっとも、wikiによれば
定政は刈谷藩2万石を与えられたが、のち出家して幕政批判をしたために廃絶、子孫は旗本として家名再興を許された(知行500石・俸禄1500俵)。とのことです。歴史ってのは、本当に面白いものです。

ちなみに松平(深溝)という家は、愛知県幸田町にある深溝(ふこうず)が元で、後に九州の島原の領主となった家ですね。由緒正しき松平家です。
Hato1

さて、亀城公園を歩いていると、カワラバトがどこやらから集まってきます。おそらく、公園で餌付けをしている人がいるんでしょうね。外国や日本の都市などでは、フン害や寄生虫の害があるので、餌を与えるのを禁止しているところがあるようです。

もちろん餌なんぞ持っていませんから、歩きだしますが、なにやら不気味な気配に振り返ると
Hato2 鳩は次から次へと増えて、後を追っかけてきます。これもう、ヒッチコックの世界ですね。さすがに襲っては来ませんでしたが。

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2011年7月 8日 (金)

越前宰相 秀康

とても面白い本を読みました。『越前宰相 秀康』 作者は、梓澤 要さんという女性の方だそうです。申し訳ない、世間知らずなので、今回初めて作品を読みました。
Hideyasu 秀康さんといえば、いったいどの姓がふさわしいかと考えると、私の場合はやはり『結城秀康』さんですね。

徳川家康の二男に産れながら、歴史の波に弄ばれて、本人の考えとは全く違った生き方をしなければなかった、歴史上の人物といったところでしょうか。

母、万は家康の正妻、築山殿の付き人で、家康の手がついて妊娠した際、手酷いリンチを加えて・・・・・というのが従来の出生の経緯だったのですが、この本では築山殿とは比較的仲が良く、しかし受胎したのが双子ではないかと確信した万が、武家では畜生腹といって子供を処分されてしまうので、家康を恐れ、逃げて出産したということになっています。

双子の一人は、万の実家、智鯉鮒神社に預けられ、神官になるという設定で、この説は昔からあるようです。
Chiryu1 産れてからも、3年間は家康に認められることもなく、それを認めさせたのが、兄信康だというんですから、確かに家康に疎まれていたのかもしれません。

家康の子として産れ、秀吉の元に養子に出され、次は結城家へ押しやられ、秀吉の死後実の父により、松平と名乗るよう命じられた、秀康、どの父が本当の父親だったと思えたのでしょうか・・・・・・

若くして亡くなった事により、美化されがちですが、事実非常に優秀な戦国武士だったようです。死因は梅毒だったそうで、この時期日本で爆発的に流行したようです。加藤清正なども罹っていたそうですね。

若死にはしましたが、越前以外にも、松江など子孫は繁栄したようですね。

さて、この本のプロローグ、高野山にある歴史上の人物の墓について書かれていますが、全て読んでしまいエピローグが終わると、もう一度プロローグを読むことになります。

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2010年7月13日 (火)

依佐見送信所跡

民主党内部で、現執行部に対する責任論が浮上しているそうで、もちろんそんな声は小沢氏周辺からでしょうが、あのまま小沢、鳩山体制で参議院選に突入していたら、もっと悲惨な目に遭っていたと思いますよ。少なくとも、山梨の悪党顔は落ちていたでしょうね。
Yosami1 日曜日は選挙だったんですが、投票所一番乗りは、前回の衆議院選挙でやったので、早朝徘徊にいってきました。そうそう、一番乗りは、一度やればよいのです。いろんな方が経験すればそれが一番。毎回やっていたら馬鹿です。

先日、ある方と話していて「依佐見の鉄塔っていつ頃なくなったんだった?」てな話になりました。そういえば、西三河地方に住んでいた方なら、誰もが通称「依佐見の鉄塔」正しくは『依佐見送信所』があったことは子供でない限り、ほとんどご存知だったと思います。

なにしろ、高さ250メートルのアンテナが8本あったわけですから、もうどこからでも見えましたね。
Yosami4私も通勤途中、いつも見ていたのですが、いつの間にかなくなってしまいました。というわけでそこまで歩いて行ってきました。

ネットで調べてみると、昭和4年にヨーロッパへの長波送信を目的として建てられたそうですが、戦後アメリカ軍に接収され、平成6年に返還、解体されたとのことです。

ですから、私が現在の所に引っ越ししたときには、既に解体された後だったようです。

現地は、解体後記念館と公園になっており、鉄塔の一部が残されていまして、これが現物の十分の一、25メートルの高さがあるそうです。ですから、近くに行くとこれが見えるものですから、方向音痴の私でも迷わずに到着することが出来ました。
Yosami2 これが記念館で、中には大きな発電機なども展示してあるようですが、今はまだ6時前なので開いていません。
Yosami3 左の高いものが先端部分で、右が基部の部分でしょうか。建っていたときに、真下から見上げてみたかったですね。もちろん立ち入り禁止だったでしょうが。
Yosami5 北側は公園となり、周囲が600メートルの遊歩道になっているので、近くの方達が多数歩いていました。

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2010年5月14日 (金)

塩の道2

Sionomiti1 私の親と会ったので、次は女房の母親にと、会いに行った。

残念ながら、母はデイケアに出かけて留守だった。

女房の実家は、国道一号線沿いにあり、裏は「塩の道」であった。写真、右が国道一号線、細い道が塩の道である。

塩の道を西に進むと秋葉山の常夜灯があったと思い出し、歩いてみたら、新築の神社のようになっていた。
Sionomiti2 塩の道はここから北上しているとされているが、地元の郷土史家はここから三つに分かれているという。そのうちの一つが私の実家の東を通る道である。本道とも言える道は、北上して宇洞(うとう)と呼ばれる村を通って森町の方向に進む。不思議な縁ではあるが、私の母親の実家の前を通っているのである。
Sionomiti3そして、安藤広重が『東海道五十三次』の掛川を描いた場所が、ここ大池橋(おいけばし)。右に見える山が秋葉山だが、いくら当時見晴らしがよいからといって、ここから見えるほどの高さではないと思う。
Kakegawa 現在の橋がこれ。
Sionomiti4 参考:http://pinno601.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_10db.html

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